路181:門松も卒塔婆も同じ一里塚
寝正月太りを解消しようと、関東平野の空っ風のなかを今日もウォーキング。ついでに路上ネタ探しも。いいネタが見つからないので、そこらの景色の写真をチョイとパソコンでセピア色にすると、なんとなくそれらしく・・・見えないかなあ?
そこで一句。
・かたかたと 塔婆が鳴って 南無遍照金剛
どうも、パクリっぽいなあ。ところで、卒塔婆の最初の梵字は、「バン」の一字を引き伸ばしたもので、法性浄水をあらわし云々、と これは先日 古河の篆刻教室で習った請け売りです。詳しくはクリックしてどうぞ。
梵字の印というのも、デザインっぽくて面白いので、一度彫ってみたいのだが、意味がわからないのが難かなあ。おっとその前に教室の宿題をやらなければ。
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コメント
はじめまして
SHOWHEYと申します。
篆刻の小カテゴリーを設置して埼玉の酔仙さんが初めてのカテゴリーへ登録されました。
私は篆刻の勉強を始めてまだ2年目ですので、レベルが違うかと思いますが、酔仙さんと交流していく中で、少しでも篆刻の腕があがれば嬉しいですね。
よろしくお願いします。
投稿: SHOWHEY | 2011年1月 8日 (土) 18時31分
ご来訪ありがとうございます。
あちこち趣味が広がって多岐亡羊の感がありますが
篆刻”も”やっておりますので、よろしくごひいきの
ほどお願いいたします。
書道や絵手紙などとくらべても、篆刻というのは
どうもマイナーな趣味らしくて、教室やサークルも
なかなか見つけるのが難しいようです。
今、酔仙が通っている古河には日本初(多分)
という篆刻美術館がありますので、機会がありましたら
ぜひご来訪下さい。
投稿: 埼玉の酔仙 | 2011年1月 8日 (土) 19時19分
今回の題であるところの、
「門松も卒塔婆も同じ一里塚」
というのは、酔仙師の稀に見る、どころか現代俳句の稀有な傑作です。誰もそれに気付かないというのは、まことに残念。気軽にすっとスイングしたら場外ホームラン、という感じ。
そう思う人はすぐに手をあげなさい。
調子にのって師がこてこてしたのをじゃんじゃん作ってブログを汚すような事態におちいっても、この作品は時代を超えて残るかもしれません。もちろん残らないかもしれません。しかし、私が見るところ、掛け値なしによい。何より深い。季語もちゃんとある。「門松や冥土の旅の一里塚うれしくも------」なんてのが背後にあるはずですが、これの方が数段うえです。
お正月のせいで少し褒めました。でも何かのときに、色紙などに書いて、得意の印を捺して、写真つきで贈呈するにあたいする作品です。
投稿: まだ62歳の米田さん | 2011年1月 8日 (土) 20時23分
年頭に尊師からのおほめの言葉、ありがとうございます。
そうか、ひょっとして一休さんの上をいってるのかな。
>調子にのって・・・じゃんじゃん作って・・・
しまいそうな自分が怖いです。この句に捺す印は、
やはり野ざらしのデザインできまりでしょう。
それで、”南無遍照金剛”の句は、ボツなんでしょうか?
投稿: 埼玉の酔仙 | 2011年1月 8日 (土) 20時36分
むーーーー。
モーツァルトの曲で、下手な演奏家を皮肉ったおもしろい作品があります。それを楽譜どおりにきちんと弾くと当然、下手に聞こえます。これって、すごいことですね。上手に立派な演奏をすると下手くそになるなんて。
それと同じで、師は、本当は凄腕なのですが、作られたもの(俳句)が下手に見えるのです。わかっていただけましたか?
投稿: まだ62歳の米田さん | 2011年1月 9日 (日) 08時58分
>わかっていただけましたか?
>
やっぱりわからん。(^_^;)?
投稿: 埼玉の酔仙 | 2011年1月 9日 (日) 12時53分
たとえば美人の写真があります。それを「美しい」と認識し、自分の脳のファイルに定着させます。それが200万画素で記憶されているとします。必要があってそれを思い出し、外部に出したいとき、つまり表現する必要があるとき、たとえば500万画素に高め、より綿密に肌の色艶、眼の輝き、くちびるの官能的な色をまざまざと再現させ、あるいは脚色し、強調し、変化させ、原画以上にすることが、普通、芸術家に期待されているメカニズムです。
随筆家の江国滋が、
裾さばきのよろしき人に桜餅
という俳句をつくったところ、プロの鷹羽狩行?が、
裾さばきのよろしき人と桜餅
と添削します。本人の意図以上に内容を濃くするのです。そういう仕掛けが本人の中ではたらいて俳句ができあがります。読み手も想像力を刺激するものをよしとします。
そこまではよろしい。酔仙師の文章表現の場合、ことに俳句において、そこまではできているのです。あとは本当に皮一枚というところで、出てきたものが何故か100万画素になってしまうというおそろしい体質というか原因についてです。
ところでしかし、ブログの普通の文章に関しては、それがよいのです。師が書かれた文章は、読者がそれ以上のこと、書かれた以上のことを想像させないような文体を持っています。書かれたものこそが私の本音だという装いです。そしてそうでなければ、顔かたちを持たない不特定のひととのコミュニケーションは基本的になりたたない。
ですから、それ以上のものをつたえなければならない俳句が、すんでのところで、強力なフィルターをかけられている。これはブログの地の文章が自然にブレーキをかけているのかもしれない。そんなふうに私は師をなぐさめることにしたのです。おしまい。
投稿: まだ62歳の米田さん | 2011年1月 9日 (日) 19時38分
なんとなくわかったような。
つまり、今は慰められている状態なのだな。
では、これからは、1000万画素をめざして
じゃんじゃんと作ってみよう。
投稿: 埼玉の酔仙 | 2011年1月 9日 (日) 20時54分