遊119:平泉(続)、達谷窟(たっこくのいわや)毘沙門堂
雪の中のお祭りを堪能したあと、翌21日朝は、せっかく平泉まで来ているのだからと、達谷窟(たっこくのいわや)毘沙門堂に向かう。今日は晴天。かなり雪の凍っている道を、宿からタクシーで10分ばかり。山の中の寺かと思ったら、意外に道路のすぐそばだった。神仏習合の色濃い、きれいな鳥居が並んでいる。他に参拝客は無く、お寺の奥さんが雪かき中で、「拝観料は帰りに声をかけてください」とのんびりしたものだ。
毘沙門堂は、岩壁に半分めりこんだように建っている。戦後の再建で、朱色も鮮やかである。間口が広いので内部もゆったりしていて、内陣の背後には岩壁が露出している。大きいのと中ぐらいのと、二体の毘沙門像が左右に控えるが、ご本尊は吉祥天だという。
蝦夷の悪路王がこの岩屋にたてこもったのを、坂の上の田村麻呂が征討した、という縁起なのだが、このタイプの岩壁・岩窟と懸崖式の寺堂との組合せはけっこう日本各地に見られるので、多分、もっと古代の磐座信仰などに源流があるのではなかろうか。堂の床下は、落ち武者や遊行の人々の聖所(アジール)だったといい、また、石器の鏃なども出土しているのだから、酔仙の私見もそう的はずれではあるまい。
姫待不動堂の古式の不動像は、小ぶりのお堂いっぱいに感じる迫力。蝦蟇ヶ池弁才天は、頭上に鳥居と宇賀神をいただく様式。
毘沙門堂に隣り合って、高さ16.5メートルの 顔面 岩面大仏。北限の磨崖仏といわれるが、崩落や磨耗で、顔と肩の辺りを残すだけ。大きな三角のお鼻が特徴的だ。この写真でわかるかなあ。
平泉駅に戻って、帰りの電車は1時間に1本。宇都宮駅でよねさんと別れて、まだ陽の明るい内に帰宅した。なかなか充実した一泊二日の旅を過ごせたことに感謝。
1/22 追記。
達谷窟からの帰りは、たまたま寺に車で来ていた地元のお兄さんに、ついでだからと親切に駅まで送っていただいた。
駅のキオスクでお土産の和菓子を買ったら、店のおばさんが、「こっちのほうに賞味期限の新しいものがあったから」と、取替えに追っかけてきてくれた。驚き。
純朴な地元の人情が思い出に残った旅だった。感謝。
1/23 追記2
お堂で、こんな厄除けの牛王宝印をいただいた。起請文に使う、熊野三山の烏文字の牛王符が有名だが、この護符も木版手刷りの素朴な感じが良い。
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コメント
充実した2日間であったとのこと
写真からも伝わってきます。
むかし達谷の悪路王
まつくらくらの二里の洞
という宮沢賢治の詩、原体剣舞連
を絵にしたことを思い出しました。
こういうところであったのですねぇ。
この大仏いいですね~。
崩れた胴体が意外といい味になってるような…
「顔面大仏」?「岩面大仏」?
この素朴な顔好きですね~。
東北が舞台の高橋克彦の「火怨」も思い出しました。
悪路王=アテルイ(?)と坂上田村麿との戦い……
昔も今も地方と中央は戦い続けて…いるのでせうか?
投稿: 章魚庵 | 2011年1月23日 (日) 12時12分
達谷窟毘沙門天を、ご紹介いただき、
有難うございました。
信用金庫の行員さんには、駅まで乗せて
いただき、感謝しています。
地元の方と積極的に話をすることから、
生まれて来るものも多いですね。
次回は、何にしますかね。
投稿: yone | 2011年1月23日 (日) 16時16分
>という宮沢賢治の詩・・・
ほほう、賢治も書いているのですか。メモメモ。
アテルイは、今では抵抗者の英雄と理解されているようですが、歴史は結局、現代の反映であるなあ、と感じます。
>「顔面大仏」?・・・
失礼、「岩面大仏」が正しいです。もっとも、現状をみると、「顔面」のほうが当たっているように思われます。(笑
>地元の方と積極的に話を・・・
そうですね、ただ通りすぎるのではなく、なにか少しでも心に触れるものを持って帰りたいものです。
投稿: 埼玉の酔仙 | 2011年1月23日 (日) 18時34分